ヤンゴン在住ブロガー桂川さんの以下ブログを読んだ。
Grab乗車中の電話の耳を傾けながら思った「Grabがミャンマーの良さの1つ“人の絆”を破壊する。」
実際に、目の前で破壊されている絆があった。
私の住む道路の長(おさ)的存在の人がいた。
その人は私がタクシーを拾う際に、近所のタクシードライバーに、
私の行き先を指示し、金額も外人価格ではなく、適正価格に調整をしてくれていた。
その長(おさ)は、上記の行動で、金を受け取ることはない。
ただ単に、困っている外国人がいて、近所のタクシードライバーに顔が利くということで、動いてくれていた。
それは、その道路に住む人と人をつなげるハブのような役割であった。
それがここ数ヶ月、Grabが便利すぎて彼の紹介を必要としなくなった。
直接ドライバーとやりとりをして、まさに彼の目の前でタクシーに乗り込む。
はじめは、「今日もGrabか!ははは」と笑っていたが、
最近は声をかけることもなくなり、しょんぼりと彼のさみしさを感じながらGrabに乗り込んでいる。
彼との接点がなくなったことで失ったものは何なのかを考える。
この道路の人との、挨拶・会話がなくなった。
逆に今まで彼を中心とした会話のやりとりがあった。
何か問題があったとき、困ったときに、彼・彼女達の監視の目がこの道路にはあった。
それが、ここ数ヶ月、そして今後永続的に、こういった小さな会話や挨拶は、Grabによってほぼなくなった。
人は便利で安価な方に流れる。
流れることは悪くないのだが、今まで非効率的ではあるが、人間と人間が接してなりたっていた部分が急遽代替される。
この人間と人間のやり取りが、ミャンマーに多くの外国人を引き寄せていた要素だとすると、それがなくなった後のミャンマーには何が残るのだろうか。
ミャンマーでもシンガポールでも東京でも便利さは同じ、
あるものは観光資源としての仏塔のみ。
そんなことを想像すると少しさみしさが募ってくる。
逆にミャンマーは規制がない分、便利で安いサービスが一気に拡大する土壌がある。
極限まで便利を追求する国としてのミャンマーもまた面白いかもしれない。
ただしそこには、人とのつながりが希薄化された状況になっている。
人間味のある国から、便利な国への急激な変遷の中で、また、人間味のある国への揺り戻しがどこかであるはずだ。
そこで出てくる人間的なつながりに基づいたサービスや、リアルな人間づきあいを、ミャンマー人はどうとらえ、どう受け止めていくのか大変興味がある。
できるのならば、その段階で私もここミャンマーで、人間的なつながりを楽しめる人間でいたいと思っている。